事務所ブログ(2015年9月)

中欧の旅4  竹下勇夫
              (2015年9月)


翌朝。

 午後2時にウィーンを出発してブダペストに向かう予定。それまで自由時間。どこへ行こうか。特に行く当てもない。ホテルの近くにベルベデーレ宮殿があるので,ここの美術館でクリムトの「接吻」をみようとも思ったが,これも以前見ていて,確かにすごい絵であるとは思うが,どういうものかそれ以外の絵との落差が激しすぎて,クリムトは「接吻」だけ,と思わせてしまうほどのすごみがあって,これはこれで鑑賞する側としては困ってしまうところもあります。ということで,今回はクリムトをパスして。

 ウィーンの森。何の脈絡もなく,突然ベートーヴェンが遺書を書いたというハイリゲンシュタットが見たくなりました。何の下準備もなく,ともかく行きたい,と思ってUバーンやらトラムやバスやらを乗り継いでいざウィーンの森へ。ところが。想像していた以上にでかい。こんなところを自分の足でほっつきまわっていたら,午後2時までにはとても戻れない。何事も決断が大事。今回はあきらめて,次回ゆっくり観光バスで回ろう。こんなでかいところ,きっと定期観光バスのようなものが運行されているはずです。

 というわけで,ウィーンの森はあきらめて,帰りのトラムの中でどこへ行こうか考えて,シシーの博物館は見たことがないからと思ったものの,やはり美術史美術館にしようということになりました。本来月曜日は休館日であるが,6月から月曜日も開館するとの情報をあらかじめ得ていたので,おかげでがらがらに空いている美術館を独占状態で見ることができました。

 入館すると,最初に有名な大階段を上って2階の絵画のフロアーへ。そうそう,ここの階段の柱と天井の間というか変な空間に壁画があって,そのうちの一部が20代の若きクリムトとその友人たちが描いたというのがあります。変な場所にあって肉眼ではなかなか鑑賞しづらい。オペラグラスはホテルに置いてきてしまったし,前回ちゃんと見たから今回はまあいいか。といこうことで,ここでもクリムトはパス。

 大階段の踊り場にでんと置かれている彫刻。カノーヴァの「テセウスとケンタウロスの戦い」。上半身が人間で下半身が馬の好色なケダモノをテセウスが懲らしめているところかな。最近相当なイタリアかぶれになってしまったせいか,ベルニーニとかカノーヴァといったイタリア人の彫刻にかなりまいってしまっています。以前なら,美術館に行ってもほとんど絵画中心に見て回り,彫刻などはすっとすりぬけるだけ,という感じだったが,最近はそうでもない。いつからかしら。最初にローマのサン・ピエトロ大聖堂でミケランジェロのピエタを見たとき以来,少し脳の感じ方が変わってきているらしい。もっとも,同じミケランジェロでもダヴィデは「どうも」という感じで少し引けてしまい,この差は何かなというところはありますが。ミケランジェロのピエタのマリアの美しさを一体なんというべきか。磔刑後のわが子を抱きとめる母親であり,こんなに娘のような若いはずはないのであって,どうしてミケランジェロがわが子よりも若くマリアを彫像したのか,それはこの像を見る者の受け止め方に任せるしかないのであるが。その次に衝撃を受けたのが同じローマのボルゲーゼ美術館にあるベルニーニの「プロセルピナの略奪」。よくまあ大理石で人間の肌のこの柔らかさを表現できるものだとあっけにとられました。そしてルーブルにあるカノーヴァの「アモルの接吻で蘇るプシュケ」。大理石でこんな表現ができるなんて本当に神業としか言いようがないですね。

 それにしても,カノーヴァの日本における人気というのはどうなっているのかしら。そもそも日本の美術館でカノーヴァを保有しているところがあるのかなあ。調べたことがないのでよくわからないけれども。去年,ルーブルに行った際にも,日本人のガイドがサモトラケのニケの前では15分以上も熱弁をふるって説明してくれたものの,カノーヴァのプシュケの前ではこれを無視するかのように通り過ぎてしまい,「日本人はカノーヴァが好きではないのかねえ」と聞いてみたが,これも無視されました。こんな美しい彫刻を前にして全く説明すらしてくれないことにがっかりするとともに,おおかたの日本人はこの作品に対する解説など求めていないのだというなんだかとても寂しい気持ちになったことを覚えている。もったいないですよ,こんな美しいものを見逃すなんて。

                                    (つづく)